『ガッチャマンクラウズ』についての所感・群衆(クラウズ)変革の時とサイコパスを愛し直すということ

ガッチャマンクラウズが超好きなので書いてみたくなった記事です。

 

※ネタバレしかありません

 

テレビではカットされたラスト付近についても触れておりますのでご注意を

 

 地球の平和を守るガッチャマンが他人の不幸を楽しむ悪の代名詞ベルク・カッツェを倒す、という主軸を据えた本作品ですが、昔のガッチャマンの勧善懲悪な物語と違い、現代社会版にかなりアップデートされています。

 

まず作品名でもあるガッチャマンの組織ですが、めちゃくちゃ保守的です。リーダーであるパイマンはガッチャマンは人に知られてはならないという根拠の分からない伝統を頑なに守ろうとするし、非常事態が起こってもボスであるJ・Jの判断を待ち、なかなか自分で決断しません(しまいには戦いから逃げたりします)。

 

そんな組織に風穴を開けるのが、主人公である一ノ瀬はじめです。彼女は自由奔放・頭であれこれ考えるよりもまず行動するタイプ。自分がガッチャマンであることを平気で友達に喋ろうとしたり、敵と思われていたMESSという怪物にコミットして仲良くなったり、ガッチャンネルという番組を作って世間にガッチャマンの存在をアピールしたり、ガッチャマンの価値観を根底から覆す存在として描かれます。

 

そんなガッチャマンの対立項として描かれるのが、SNSであるGALAXです。創始者である爾乃美家累は「世界をアップデートするのはヒーローじゃない。僕らだ」と謳い、突出した存在に頼るのではなく、GALAXを通じて一人ひとりが助けあうことで人類の意識をアップデートしようと試みる、現代版共産主義者です。

 

そして最初は累に力を貸しながらも、GALAXで世界を崩壊に導くものがベルク・カッツェです。彼は累の理想に力添えをしますが、やがてGALAXを悪用し、自分の手でなく人間自身によって世界を破滅させようとします。

 

この作品の構図をざっと整理すると

 

より良い世界を目指すという共通項において

ガッチャマン(右翼):GALAX(左翼)

 

中間者・破壊者・快楽主義者・目的のために手段を問わないという共通項において

・一ノ瀬はじめ(善):ベルク・カッツェ(悪)

 

という二つの二項対立ができますね。

 

 

ガッチャマン:GALAXの政治的対立については「それぞれいいとこ悪いとこあるよね、右左極端に走らずに僕らは頑張ってアウフヘーベンしようね」という感想です、一言で言えば。

第一次世界大戦のきっかけでもヒトラー政権の支持でも何でもいいんですが、人類の歴史上「群衆(クラウズ)」は間違え続けてきました。作品中のクライマックスでもクラウズはカッツェをきっかけに暴走します。

そんなクラウズを止めるには、「楽しい」という付加価値をつけた「善なる意思」しかないんじゃね? インターネットがもっとユビキタス化したら可能になるんじゃね? クラウズを止めるにはクラウズを! というラストの収束は素晴らしかったと思います。

 

 

 

さて、はじめ:カッツェという対比について。 

中間者、というのは属していながら属していない、という意味です。例えばはじめはGALAXをバリバリ活用しますし、カッツェと仲良くなろうとしますし、パーソナル的にスマホと対極であろう手帳を愛用したりします。カッツェに至っては、そもそもガッチャマンだったりします。

 破壊者、はそのまんまですね。はじめはガッチャマンでありながらガッチャマンのルールを独断で蹂躙しましたし、カッツェは世界を破壊しようとしています。

快楽主義者であることや目的のために手段を選ばない、という点も説明はいらないでしょう。

 

 

ここで、ちょっと変な話をします。

 

“愛されてきた人に愛されてこなかった人を裁く権利はあると思いますか?”

 

いきなり変な話をしてすみません。けどこれ僕にとっては、昔っから解けない倫理的テーマなんです。

愛される、必要とされる、承認される、分かってもらう…人間の根源的な欲求ですよね。

 

 

ここからが大事なんですが、人間は「まず分かってもらう」で、初めて他人のことを分かろうとする生き物だと思うんですね。そうやって共感することを覚えて、他人の痛みを知り、社会的な生き物になっていくと思うんです。

 

では愛されなかった、必要とされなかった、承認されなかった、分かってもらえなかった人間はどうなるのか? 

他人を分かろうとしない、共感能力の欠如、いわゆるサイコパスというやつですね。

 

よって上記の問いかけは「普通の人はサイコパスをどう裁けばいいのか?」と読み替えることもできます。

もっと言います。「サイコパスはどうやって幸せになればよかったのか」

 

もちろん犯罪するやつにそんな権利はない、社会的に害を加える前に隔離すべし、と言うのは簡単です。けどサイコパスは運命的にサイコパスです、子どもは親や環境を選べないので。

最大多数の最大幸福的に隔離されちゃうのは分かりますし、しょうがないと思います。ここまで言っといてアレですが、僕も人権派を気取るつもりはありませんし、むしろ嫌いです。けど、ここをないがしろにするのは、ちょっと違うんじゃないかなぁと思うわけです。

 

 

話をガッチャマンに戻します。

 

一ノ瀬はじめはベルク・カッツェにどうアプローチしたのか。

 

 

彼女は、出会った始めから、むしろ出会う前から、彼を分かろうとしたんです。

 彼女は出会う前から全てを愛そうとする人間です。敵さえも。

  

「僕、なんだかわかんないけど、寂しくてたまらないっす」

 

カッツェと対峙した後、彼女は作品上初めて戸惑いを覚え、落ち込みます。なぜカッツェが悪事を働くのか、なぜそれを楽しいと感じるのか、ここまで相手の一切合切が分からなかったのは、彼女にとって初めての経験だったのではないでしょうか?

  

「カッツェさん、寂しいんすよね」

 

うんと考えた末、彼女はこう結論づけます。もちろんカッツェには理解不能です。他人と分かり合うという価値観のないカッツェには、寂しいという意味が全く分からなかった。

そんな彼に、彼女は口づけをします。そして、自分の中に彼を取り込んでしまう。

最終的に、はじめが嫌がるカッツェを海に連れ出すところで幕引きとなります。

 

 

先ほど僕はサイコパスはどうすれば幸せになれるのかという問いを立てましたが、はじめのカッツェへのアプローチって、隔離したり処刑したりする以外での、最も現実的な方法だと思うんですね。

 

共感能力の欠如したカッツェに、世界を愛してもらうために、まずカッツェ自身を愛するということ。他人の不幸以外の、喜びを与えようとするということ。

 

もちろんはじめのアプローチは無駄なのかもしれません。現にカッツェは1年ほどはじめと一緒にいるのに、はじめの提案に悪態ばかりついています。

 

繰り返しますが、現実的にはサイコパスは隔離したりする他ないというのは重々承知しています。

 

けど、だからこそ、はじめのようなアプローチについてちゃんと考えなきゃいけないと思うわけです。

 

思考停止しないためにも。世界をディストピアにしないためにも。

 

おしまい。