文学についての所感・黒い鳥は殺さなくてはならない
いつも言ってることですが、僕の文学観って村上龍の「時代の悲鳴を翻訳する」のと、村上春樹の「繋がらないはずのものを繋げる行為」てのに集約されるんですよね。そういう漠然とした不安を言語化することは、そのまま社会集団の生存戦略になる。古代人が雷を「神の仕業なり!」つって安心する的な。
— 亮祐 ryosuke.i (@c0ra1_reef) 2015年3月11日
ってのを以前に呟いたんですが、常日頃から考えてることなのでちゃんと文章にして残しとこうかなーという記事。
Twitterでは社会集団の生存戦略と書きましたが、文学というのは個人を救済するものです。
例えば太宰治。
望月ミネタロウが漫画で太宰について「生まれてきてすみませんって言ってたけど彼の小説はその後多くの人間の生きる力になってるかも」て言ってた。苦しみは決して忘れられなくて、共有されることでしか解放されないと。そりゃ仏教もキリスト教も流行るわな。そして現代は小さな物語がそれを担う時代。
— 亮祐 ryosuke.i (@c0ra1_reef) 2014年11月5日
そういう意味で、文学というのはニッチな宗教とも言えます。間口は狭いですが、ある種の人を圧倒的に救います。
太宰治を読まずに生きてこれた人には、太宰治なんて一生必要ないです。太宰治“的”な苦しみを知る人にだけ、太宰治はその人の救いとなり、やがて血肉になります。
太宰の悲鳴は時代を越え普遍性を帯び、今もどこかの誰かを救っています。現に僕なんかは「斜陽」の弟・直治の遺書にめちゃくちゃ救われました。
では繋がらないはずのものを繋げる行為とは何か。
一言で言えば、矛盾している、という話です。
太宰治は自殺未遂を繰り返しました。本当に何度も死のうと思った、なのに死ねなかった(最終的には自殺に成功しますが)。「斜陽」では、死にたいのに生きている苦しみを「没落貴族」という矛盾した存在を題材に描いています。「快楽のイムポテンツなんです」「僕は、素面で死ぬんです」等と表現しなから。
太宰なんかは生き方と小説が直結してるので、分かり易いですね。
もう少し例を挙げます。
梶井基次郎。彼はふとしたことですぐに不安になる人でした。ていうか多分強迫性障害だったんじゃないかと思ってます。
代表作「檸檬」は何をしても楽しくない気分の時に、丸善に本のタワーをこっそり作り、その頂点に檸檬を置き「この檸檬が爆弾だったら愉快だなぁ」と妄想してそのまま帰ってしまい、少しマシな気分になる、というなかなかクレイジーな内容です。
檸檬が爆弾のわけ、ないです。けど檸檬と爆弾を繋げることで、物語が生まれ、彼は救われた。
「桜の樹の下には」は、桜が美しすぎて信じられない男が、「樹の下には屍体があるに違いない」と考えることで、心の平衡を保ち、花見に参加できる、という話です。そういう意味では、美しすぎるから燃やした、三島由紀夫の「金閣寺」なんかも類似系として挙げられますね。
一番最初に挙げた作家で言うと、村上龍「限りなく透明に近いブルー」では、麻薬中毒の幻覚である“黒い鳥”と、少女の見た夢の中の王国が繋がりますし、村上春樹の長編なんか全部そういう構成です。
今まで書いたことをまとめると
「文学は、繋がらないものを繋げることで個人・時代の悲鳴を翻訳し、人々を苦しみから解放する」
という話です。
しかし現在、文学はほぼオワコン化しています。
面白い作品がないのではなく、読む人自体がほとんどいない、という意味です。
では文学が担っていた役割は今何が担っているのか、今読むべき現代文学とはどんな本か、という話を書こうと思っていたのですが、疲れたので気が向いたらにします。
また今日書いた話は、文学の一面でしかありませんので、そこはご容赦下さい。
最後にオススメ文学だけ貼っておしまい。