『君の名は。』をどうしても観ることのできない男がどうしようもなく願うこと
話を始める前に、前提が4つある。
①これは「嫌なら見るな」で終わる話である。
②そして、それを選ぶこともできない中途半端なオタクの自分語りである。
③この映画が好きな方は、不快な思いをされるかもしれない。
④最後にお願いがある。
『君の名は。』をどうしても観ることができない。
『君の名は。』は監督新海誠、音楽RADWIMPS、プロデューサー川村元気、配給東宝という最強の布陣で作られた、近年最大の興行収入を挙げたアニメ映画である。観ていない自分でもこれぐらい知ってるのだから、説明は不要だろう。
観れば、間違いなく面白いのだろうと思う。おそらく感動し、泣きもするだろう。しかし、どうしても観ることができない。なぜか。それを考えるのが、この記事のコンセプトである。
セカイ系という言葉がある。いや、あった。
セカイ系とは一言で言うと、ある少年少女の自意識・承認欲求・物語が、社会・政治等の中間領域を経由せずに、世界そのものの謎・運命と直結している、90年代後半〜00年代に猛烈に流行った物語類型の一つである。ぶっちゃげ定義は人によって違うレベルなので、一つの見方としてこういうものだと捉えてほしい。
基本的に『新世紀エヴァンゲリオン』の影響をもろに受けており、代表作は、東浩紀の言葉を借りるなら新海誠『ほしのこえ』、高橋しん『最終兵器彼女』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』。
もっとオタク界隈的に言うなら、麻枝准『Air』、広い定義で遡ると村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、最近の作品でいうとクリストファー・ノーラン『インターステラー』等にも当てはまる。
要するにとても便利で賢ぶれる言葉なので、オタク達はその言葉を消費しまくり、物語類型の中に一瞬で馴染んでいき、もはや誰も使わなくなった。さきほど「あった」と言ったのはそういう理由である。
結論から言う。
この映画の、どうしようもなくセカイ系な感じに、ボーイミーツガールという青春の皮を被せて、ミステリー的どんでん返しも準備してますよ的なフルコース感が、どうしても受け入れられない。
多分この作品の主人公は、世界的な何かを救っちゃうんだろう、少年と少女は結局結ばれないけど心は繋がるんだろう、「名前」というモチーフを背景に急に劇伴が消えて無音になっちゃったりするんだろう、『転校生』と高橋留美子をブレンドしたような「入れ替わり」の設定は予告でするくらいだからミスリードで別に一つか二つオチがあるんだろう、クライマックスでは前前前世のピアノアレンジが流れて……という全てが、僕に映画館に足を運ばせなかった理由である。
……ので、正直観たくなったらレンタルすればいいかな〜と思っていた。甘かった。絶対に観たくないのである。
自分は中学〜大学時代に完全にセカイ系を血肉をしてきた世代のオタクだった。村上春樹を読み漁り、エヴァに感銘を受け、電撃最盛期のラノベを読み、エロゲ文化という存在に衝撃を受ける、ごくありふれたこじらせオタクだった。具体的に言うなら、富野が好きだからと『ガンダムZZ』を全て観るほどの甲斐性はないが、夏祭りに行って瀬戸口廉也の『CARNIVAL』を想起する程度にはオタクであった。
しかも! なんと、音楽がRADWIMPSなのである!
もう一度言う。“今”、“RADWIMPS”を起用しているのである!
同世代なら分かってもらえると思うのだが、あの「FMラジオを流していたら何だか掴みどころのないお洒落で訳の分からない曲が流れてきたと思って調べたら“最大公約数”とかいうわけのわからない曲名だった」RADWIMPSである!!!「君のいつだって誰かのためにあった心はいつもどれだけの自分を愛せただろう」のRADWIMPSである!「光って消えるただそれだけと知りながら光る僕はキレイでしょ」のRADWIMPSである! 野田洋次郎である! 帰国子女である!
……何が言いたいのかと言うと、おそらく『君の名は。』はどうしようもなく僕の魂をエグッてくる作品に間違いないのだ。エグッて削って、僕の存在ごと粉々にしてしまう作品なのだ。
じゃあ観なくてもいいんじゃないか? …ぐうの音もでない。仰る通りだ。
それを邪魔するのは、上に書いた以上に複雑なものだ。
アニメ業界を応援したいという気持ち、新海誠のそれなりに古参ファンとしての喜び、日本のアニメが世界的にウケたという誇り、単純に作品への好奇心、「これだけヒットしてるんだから抑えといたほうがいいんじゃないか?」というオタク特有の上から目線の使命感。ちなみに、今最後に挙げたものが邪魔する理由の9割である。
つまり要約してしまうと、
観るべき理由:面白そうだし、くそ流行ったから
観ない理由:同族嫌悪と共感性羞恥
というだけとも言える。
……のだが、その結論はあまりにもあんまりなので、何故「どうしても」観れないのか、もう少し説明させていただく。
クリシェという概念がある。日本語にするなら常套句、決まり文句のことで、テンプレと表現すると馴染みがあるかもしれない。
クリシェはイギリスで嫌われる表現らしく、日本では「テンプレヒロイン」「テンプレ展開」みたいな感じで揶揄されて使われるのに近いと思われる。
諏訪哲史という小説家がいる。『アサッテの人』で第137回芥川賞を受賞した作家で、8月22日には新刊『岩塩の女王』が発売になる。
そんな諏訪哲史のある小説のあとがきから、少し引用させていただく。
「かつて『ドン・キホーテ』が騎士道物語の流行を当時の紋切型として批評することで成立し、『ボヴァリー夫人』が姦通物語をやはり紋切型として批評することで成立したように、小説という言語芸術はこれまで、既存の様式・既存の文学史を、外部から批評する視点を持つことで、都度、乗り越えられてきた。(中略)僕には批評すべき紋切型が存在した。それは「物語」、中でも近代文学史において厭きもせず執拗に繰り返されてきた紋切型、すなわち「愛と死の物語」である。(中略)自分にはもうこれらの反復物語には流すべき涙はない、そう悟った」
ここまで書いて、ようやく結論が出た。
「涙を流さない」ではなく「流すべき涙はない」から、きっと自分は『君の名は。』をどうしても観れないのだろう。
先ほど書いた使命感とは別の使命感。クリシェへの憎悪、停滞・思考停止への嫌悪感だ。
それで気づいたけど、「40年前に話は終わってるんだからそれ踏まえてこい」てのも、古株の傲慢の例とされる「SF1000本読んで来い」論と同じアレだよね。でこれ、学問分野での世代対応と同じだよね。論文書くときは先行研究を全部参照してから新規性を出せみたいなやつ。
— 小川一水 (@ogawaissui) 2017年8月9日
いっぽうで人間が生まれて育ってくると初めての感覚をいろいろ楽しむもので。お米おいしい肉おいしいアイスおいしい。それは「自分の中に入ってくる瞬間」が大事なのであって、人から「米おいしいよ」と言われて満たされるものじゃない。
— 小川一水 (@ogawaissui) 2017年8月9日
肉おいしかったら人は何度でも肉を食う。ああーおいしかった最高……うん、もういいや、二回目からはおいしくないし! と思うことはない。ほんとにおいしけりゃ何度でも食う。新規性もくそもない。反復にこそ幸せがある。
— 小川一水 (@ogawaissui) 2017年8月9日
で、最近初めて肉を食ってうわーもっと食いたいと思ってる人に、「その肉もう40年前に俺が食ったから食わないでくれる?」って言っちゃうのって、何この人……ってならないか。
— 小川一水 (@ogawaissui) 2017年8月9日
学問の分野だと、40年前に肉の味の研究が済んでたら、今改めてやる必要ないけど。「俺が味わいたいんだ」っていうときは、40年前に味が知れ渡っていようが斯界の偉人が語っていようが、知るか俺が食いたいんだ俺がこの味を語るんだぐちゃぐちゃ言うなってなる。
— 小川一水 (@ogawaissui) 2017年8月9日
小川一水先生の言うとおり、人にとやかく言うつもりは全くない。これは、自分だけの話だ。
…けどそれでもこの記事を読んで不快になる方はいらっしゃると思うが…そこは自分ごときが偉そうにすみませんとしか言いようがない…すみません。。。
……さて最後にお願いがあると書きましたが、これはもし僕の記事に共感して下さる方がいらっしゃったら、その方へのお願いです。
上にあとがきから引用させていただいた諏訪哲史のある小説とは「りすん」といいます。
これは僕が最も好きな「小説」で、おそらくあなたが読んだこれまでの「小説」とは全く違う「小説」です。
小説に留まらず、既存の「物語」全てに批判性を持ち、かつそれ自体が新しい「物語」です。
あなたの心に問いかける「小説」です。
おそらく、あなたの中に「迷い」を生み出す物語です。
既存の価値観を壊すことを定義とするなら、この小説は「芸術」です。
是非読んでみて下さい。
あと繰り返しますが、自分は『君の名は。』やこの作品のファンを貶める気は一切ありません。
それでは、このような駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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