雑感6・または物語と映像的快楽についての序文

物語とは何か。

最小単位としては、誰かと誰かが出会い、感情が生まれる…もしくはその過程や文脈自体のことです。ストーリーとナラティブの違いなどもありますが、そう仮定して論を進めます。

 

 

ではなぜ人は物語を作るのか。

それは端的に、共同体を継続させるために便利だからです。

 

例えば、人は得体が知れないものを怖がります。科学的知識のない時代の人は現代人とは違う文脈で雷を恐れるわけです。そこで「人間が悪いことをしたから神様が怒ってるんだよ。神なり」という文脈と名前を付与することで安心しました。原因と結果の可視化。演繹法や、もしくは「神様が怒ってるから我々人間が何かしたのでは」という帰納法ですね。

現代でいうと、例えば“普通の人”と比べて明らかにズレたことをいう子を「天然」ちょっと前なら「不思議ちゃん」と名付けることでコミュニティにポジションを作ったりですね。自分と違うものを見ても排他的にならずに済む。

こういった「理解できないもの」を(屁理屈にせよ)「理解できる」に落とし込むのに、物語はめちゃくちゃ便利なわけです。

 

そして大きな理由がもう一つ。道徳です。

なぜ道徳が必要なのか。

例えば「ゴミをポイ捨てしたら死刑」という法律がある共同体は長生きしません。かといって「ポイ捨て自由」という共同体も同様です。共同体は、こういった「ルール未満の悪」をカバーする必要があります。

そこで利用されるのが良心という機能です。「ポイ捨てをしたら自分以外の誰かが困るなぁ」という罪悪感を学ばせる。罪悪感自体は集団から排除されることを恐れる本能ですが、何が「悪」なのかは後天的に学ぶものです。それを紐づけなければならない。ちなみに最も一般的なルール未満の悪は「嘘をつくこと」で、だからなのか日本の昔話ではよく正直ものと嘘つきが比較されますね。

で、時代によって善悪の概念はコロコロ変わるので、ガイドラインとして物語はとても便利だということです。

 

 

未知を知ることと善悪を学ぶこと。以上の2つが自分の考えた物語の必要性。要するに物語は、共同体における生存戦略なんですね。

 

 

 

………で、あの、本当は映画というものが物語の媒体の一つとしてどのような過程で生まれたか(演劇→映画の文脈)、どのような機能を持つかという話を宮崎駿やらスパイダーバースやら劇団イヌカレーやら文脈以外で語れる映像的快感やメタファーや神話素について書きたかったんですが大前提書いただけで疲れたのでやめました。もし読んでくれてる人がいたら中途半端ですまんな…