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セッションについての所感  憎しみで結ばれた者にしか生み出せないもの、ネクスト・チャーリーへの贈り物

映画

「グッジョブという言葉が、ネクスト・チャーリーを殺す」

 

主人公ニールは、チャーリー・パーカーを20世紀最も偉大な音楽家だ、と称した。

 

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 彼はチャーリーのようになりたかった。音楽史に名を刻むような、偉大な音楽家に。

 

 

もう1人の主人公、フレッチャー。

 

彼は、次なるチャーリーを育てたかった。自分の音楽の全てを叩き込んでもめげない、器を求めていた。

 

 

出会いだけが物語を生む。セッションは、音楽の神に触れる物語だ。

 

 

正しい音楽というものが存在する。

 

もちろん音楽は完全に好みだ。それは聴き手の感受性に依存する。

 

では正しい音楽とは何なのか。それは、間違った音楽を挙げると容易く分かるだろう。

 

音程が合っていない、リズムが滑ってる、和音のバランスが悪い、例はいくらでも挙げられるが、市販のCD等、(ある程度)完成された音楽しか聞いたことのない人間(特に楽器を演奏したことのない人、アンサンブルの経験のない人)は、この辺りを歌い手や奏者の「個性」と勘違いする。

 

ニールも、そんな数多の人間のうちの1人だった。

 

 

フレッチャーは、練習場でドラムを叩くニールを見つける。

 

響くフィルイン。自分の叩いて気持ち良い譜面は重ねて奏でるのに、基礎リズムは安定しない、音楽学校にはいくらでもいるだろう、オナニープレイヤー。

 

彼は別に失望しなかった。むしろ、彼の中に何かを見初めた。フレッチャーの求める人材は、技術の保持者ではなく、器だったから。シンバルを投げつけても立ち上がる器。自分の中の理想の音楽、正しい音楽を表現できる道具。そして、情熱の持ち主。

 

チャーリーになりたい男と、チャーリーを生み出したい男。両者の利害は一致していたし、出会いは必然だったと言えよう。

 

それは言い換えるなら、情動と理性。両翼の車輪。本当の音楽を奏でるために、必要なもの。

 

フレッチャーは過剰なほど、ニールに「正しい音楽」を叩き込む。彼の指導には限度がない。0か1か、彼は欲しいもの以外はいらない男だ。

 

 

だがそんなフレッチャーも、完璧な人間ではない。

 

 

初めてセッションを観たとき、2つ気になった点があった。

 

1つは彼の生徒が鬱で自殺したことを隠し、美談に仕立てあげたこと。もう1つは、音楽の信仰者である彼が、ステージを台無しにしてまでニールに復讐したこと。

 

これを映画の欠点として指摘するのは簡単だ。けど僕は違うと思う。

 

要するに、フレッチャーも未熟だったのだ。言いにくいことは言わないし、追放された元凶であるニールに憎しみを抱く、僕らと同じ人間。芸術の奴隷ではなく。

 

 

もちろんニールも、フレッチャーを恨んでいる。彼らは憎しみで結ばれている。

 

 

ラストステージ。

 

ここは、彼らの憎しみが頂点に達した場所だ。それはお互いのこれまで人生を否定するような、プライドの殺し合い。

 

奇跡はそこで起こる。

 

 

…これまでで最高の音楽が、そこで生まれたのだ。

 

ニールが情動を吐き散らし、フレッチャーがそれを制御する。音楽に必要な両輪が、情動と理性が、初めて機能した。いや、ステージの上で“化けた”。

 

彼らの憎しみは、最高の音楽を奏でられるかもしれないという、人生で一番追い求めていた瞬間の前に、完全に形骸化した。

 

芸術は破壊行為にしばしば例えられる。それは時代の価値観を壊すだけでなく、彼らの“人間の部分”をも破壊してしまった。

 

音楽を奏でる道具。表現者以外でない者。究極の憎しみだけが導くことのできる領域。

 

 

ドラムソロの終わり、フレッチャーは音楽の神様から言霊を授かる。それは、ネクスト・チャーリーにだけ与えられる称号。彼はそれを、ニールに目で伝える。

 

 

「グッジョブ」

 

 

そして観客は、ニールの、音無き声を聞くのだ。

 

 

「サンキュー」