『シン・ゴジラ』についての所感・かわいそうなゴジラ、小さきその悲鳴
「そのまま世界をぶっ壊してくれたらよかったのに」
一緒に観に行った友人はそう言った。
ポスターに飾られた煽り文の、現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。
これは半分ウソである。
いや、ウソではないのだが、厳密には、シン・ゴジラは現実と虚構が交錯する物語だ。
まず物語を、東京3区壊滅以前、以後に分けてみる。
前半は、だらしのない対応の日本政府=現実と、未曾有のバイオハザードであるゴジラ=虚構の構図を主軸としてストーリーは進む。
後半も政府vsゴジラには間違いないのだが、その価値観が反転している。
フランス・アメリカとの巧みな外交、的確かつ迅速な政治的判断、これらは我々が目にすることのない「虚構」であり、こうあって欲しいという「願望」だ。
では現実=ゴジラとは何か。我々が受け入れなくてはならないもの、東日本大震災と原発である。
虚構の現実化と現実の虚構化。
想定を越えた震災・原発の崩壊と、こうあってほしいという日本。
要するに、ファンタジーが現実へ侵食したときに見た、庵野秀明の夢なのだ。
…とまぁこんなの100万回くらいネットで言われてきただろうし、こっからは個人的感想。
繰り返し言う。
「そのまま世界をぶっ壊してくれたらよかったのに」
一緒に観に行った友人はそう言った。
気持ちは分からないでもなかったが、僕はそれを肯定するわけにはいかなかった。なぜなら、シン・ゴジラを、庵野秀明が描いたその顛末を観てしまったからだ。旧劇エヴァ、新劇エヴァ(特にQ)を経てシン・ゴジラに「辿り着けた」彼を否定してしまう気がしたのかもしれない。
だけど、今なら言える。ゴジラは、そのまま世界を壊すべきだったと。
初代ゴジラは、かの大戦で散っていった英霊の残留思念である。これは公式が〜だとかそういう説があって〜、という話ではなく、メタファーとしてである。
初代ゴジラは皇居を踏まなかっただとかそういうのは該当の本でも読んでもらったらいいので割愛するが、問題はゴジラがわざわざ東京にやってきた動機だ。
それは、復讐である。彼らの死を犠牲にして、のうのうと幸せに暮らす人々に、復讐に来たのだ。
社会学的に言うなら、初代ゴジラは、焼け野原の上に成り立つ一般市民の「このまま幸せになっていいのだろうか」という不安や強迫観念を言語化、映像化することで、日本というコミュニティを継続させるための生存戦略として機能した。
シン・ゴジラはどうか。
牧教授、彼の動機もまた、復讐である。
放射線に妻を殺された怒り、何もしなかった日本への憎しみ。
彼は「好きにした」。
好きにした…のではないと思う。他に選択肢がなかったのだ。
…いや違うか、「好きにする」というのは、意思だ。他を選ばないというのは、それを選ぶことに他ならない。運命と自由は似ている。
…復讐は遂げられぬままゴジラは凍結される。
かわいそうなゴジラ。
底のない憎悪も憤怒も、最大多数最大幸福の前では無力と化す。
教授の机に置いてあった宮沢賢治の「春と修羅」にこんな一節がある。
ほんとうに俺が見えるのか
まばゆい気圏の海の底に
誰かが彼を見つけていれば……牧教授のその小さな悲鳴が、少しでも拾われていれば……。
そんな風に、僕らはいつでも鈍感で残酷で、そして遅すぎる生き物なのだろう。
神の化身ゴジラ、願わくば、次に人に復讐するときは、その圧倒的な憎しみで、世界をファンタジーで染めてくれないか。