『アンダーカレント』についての所感・原罪の河の合流点の、水面に浮かぶ膿
「あたしが死ねばよかった」
キリスト教によると、人間は罪を背負って生まれてきたようだ。その罰として労働が課せられただとか。
それらはもちろん嘘であるが、人々を支配することにおいて、人間の「罪と罰」という機能は便利だったことだろう。
何か失敗してしまったときに感じる良心の呵責、罪悪感、苦しみ。そんなときに「こうすれば救われますよ」と罰を与えてくれる宗教。キリスト教なんかに顕著なのは、生まれながらにして罪を背負っていると教育するわけだから、そのサイクルにさえ巻き込めばそら発展するわなーと思う。(ディスってるわけじゃありません)
僕が思うに、原罪というのは、確かにある。ただ、人類に課せられた運命とかではなく、生まれてから背負う呪いだと思う。
豊田徹也著「アンダーカレント」は、呪いを被った3人の男女の物語だ。
アンダーカレント:
①下層の水流、底流
②表面の思想や感情と矛盾する暗流
「明るく元気で大人たちに好かれ短い髪の似合ったさなえちゃん
(中略)私は長い間さなえちゃんのかわりを生きてきた 死ぬこともできずに」
主人公かなえは、幼い頃に友達を誘拐犯に殺されて以来、自分が代わりに死ぬべきだったという後悔を抱えている。表向きには気の強い明るい女性であるが、彼女の根底には暗いトラウマが流れている。これが彼女の原罪である。
物語は、そんな彼女の旦那の失踪から幕を開ける。
「ぼくはここに来るべきじゃなかったんです」
堀。旦那の失踪後、かなえの仕事を支える不思議な男。その正体は誘拐犯に殺された少女の兄である…ことが終盤に明かされる。彼は「つまらない見栄のせいで妹を守れなかった」という呪いにかかっている。
「僕はその人が何を信じたがっているか 何をいっていってもらいたいかが手にとるようにわかる そしてそれを与えることができる」
失踪した旦那の、悟。彼がこの物語で最も不可解であり象徴的なキャラクターだ。子供の頃から「何故か」当たり前のようにウソをついてしまい、バレそうになると逃げることを繰り返してきた男。彼のトラウマ(動機)は作中では語られず、そのことが一層この男のアンダーカレントな側面を際立たせている。
本題に入る前に、そもそも呪いとは何だろうか?
呪いに関しては、成馬零一氏のツイートが面白い。
例えば、宮﨑駿のハウルの動く城に関して。
ハウルの動く城 男のコがかかってる強くあらねばならない。王子様であらねばならないっていう呪いをおばぁちゃんが解いてあげるって話なんだね。これも2000年代前半に木村拓哉の声で作った宮崎駿はすごいなぁ。本人だけの才覚じゃないだろうけど。映像が全部メタファーなのが凄い。
— 成馬零一(なりまれいいち) (@nariyamada) 2015, 10月 2
また、ハンターハンターに関して。
H×H アルカの能力の面白いのは、利益の代償としての厄災が、自分じゃない人にも降りかかるところで、あれはすごく今の時代の悪って感じがする。いじめられた人が、いじめた人でなくて、関係ない弱い人の命を奪ってしまうというか。でもまぁ、呪いってそもそも、そういうものなのかもな。
などなど、現代の呪いをキーワードに面白い呟きをされている。
それらを踏まえた上で、呪いとは何か。
僕は「強迫観念」のことだと考える。
理由は分からないが、何かをしなければならないという焦燥。使命感。個人個人に芽生えてしまった、もはや本能に近いもの。
3度の未遂を繰り返した後にようやく自殺に成功した太宰治。美しい桜の樹の下には屍体が埋まっていると思わなくてはいけなかった梶井基次郎。アサッテを目指してもがき続けた諏訪哲史。芥川龍之介の言う、唯ぼんやりとした不安。
近代現代の文学は、神なき時代の強迫観念との戦いの歴史だ。
呪いは祝福されなければならない。神話や伝承など民俗学の世界ではそれが当たり前だった。だから例えば上記の宮﨑駿作品などは構成やメゾットが神話そのものなのでハッピーエンドを迎える(風立ちぬは除く)。
しかし、アンダーカレントの世界では、祝福は見事なまでに回避される。
かなえはこれからも自分は死ぬべきだと思い続けるだろう。堀は生涯妹を守れなかった罪悪感に襲われ続けるだろう。悟はまた別の場所で嘘をつき、自らそれを壊し続けるだろう。
「(中略)互いに苦しみをぶつけ合えばいい! 傷ついて泣いてそのことを伝え合えばよい! それで互いにわかりあえるとは限らんが苦しみなんてのは内に秘めとくと身を腐らせるだけじゃぞ!」
これはサブ爺の台詞。圧倒的正論である。苦しみから解放される方法は、同じ苦しみを共有するほかない。
それについては、以前こんな形でブログに書いた。
堀は最後までかなえに自分の過去を打ち明けなかった。苦しみを共有しなかった。できなかったのではなく、しなかった。
全部打ち明けて彼女を救ってやれよ!!! …というのが第3者の意見だろう。というか、僕なんかはかなえが可哀想過ぎて完全にそう思う。
だけどサブ爺は彼を強くは責めない。その気持ちも痛いほど分かる。
なぜなら、彼もまた呪われているのだから。
世界で唯一かなえを救える男は、ある意味かなえのせいで呪われているのだ。
…もちろん堀はそんな風に考えてはいない。だけどこの話をかなえに打ち明けたとき、おそらくかなえは別の罪を抱えることになる。なんせ彼は、自分のせいで死んだ少女の最愛の兄だったのだから。
彼には、どうあがいても彼女を守れない。
かなえに自分が死んだ妹の兄だとバレる前に、彼女の「黙っていなくならないでね」という言葉を裏切ってまで立ち去ることが、最善策だった。
これ以上一緒にいても彼女を苦しめるだけ、というのはそういう意味だろう。
…と、ここまで書いておいてなんだが、実はかなえと堀のこういった関係性は、単なるお膳立てに過ぎないと考えている。
アンダーカレントの本質は、悟にある。
以前、こんなツイートをした。
最近思うのは文学って“衝動”の表現の形なのかなということ。衝動には動機がない。少なくとも無意識にしかない。フロイトの言うとこの欲動を表現(推理)するための媒体としての物語。そう考えるとアンダーカレント、なんと示唆的なタイトルなことか https://t.co/8fYGA4BqCu
— 亮祐 ryosuke.i (@c0ra1_reef) 2016年1月6日
要するにアンダーカレントの物語は、どっかに行った旦那のよく分からない“衝動たち”を表現するために存在すると思う。それ以外は主人公含めおまけ。言葉にできないものを表現するために物語は存在する。ハンターハンターのコムギとメルエムの関係性を一概に愛と説明しないのと一緒じゃないかなぁ。
— 亮祐 ryosuke.i (@c0ra1_reef) 2016年1月6日
僕は物語を読むとき、いつもキャラクターの行動原理について考える。
例えば子供を再優先に考えるだとか、 楽しければ何でもいいだとか、あまのじゃくだとか。そういう行動原理のリアリティラインが高ければ高いほど、感情移入しやすいというのが持論である(ゆえに芝居かかったシーン、行動原理より構成や結末を優先した脚本、演劇などはあまり好きになれない)。
かなえと堀の行動原理はよく分かる。それは、彼らのアンダーカレントが作中で語られているからだ。
だが、悟にはそれがない。
アンダーカレントを“ミステリー”として読んだ読者は、悟がただの嘘つきだったという“オチ”に失望したかもしれない。
だけど、この物語を一言一句読んでみたら、その設定に妙に説得力がありませんでしたか?
もっと丁寧に言うと、アンダーカレントは、動機(原罪)なき嘘つきである悟の、それでいてリアリティラインの高い物語だったということだ。
トラウマでも快楽のためでもなく、平気でなんとなく嘘をつく男。
この“なんとなく”というのは言葉では説明できない、上記のツイートの“衝動”というやつだろう。
このなんとなくという衝動の説得力のために、この物語の全ては存在した。かなえや悟、コマの間合いや、風景さえも。文脈でしか語れないのだ。
しかしそんな彼も、かなえと会うことで変わってしまった。
嘘を貫くために誰かを言いくるめたり、仕事を辞めたりする男が、かなえにだけは深い罪悪感を抱いてしまった。
もしくは、幼い頃からの呪いの種が、開花してしまった。
かなえや堀と彼との決定的な違いは、彼は自分の中の矛盾に自覚的だったというところだ。
その自覚に、苦しむようになってしまった。
「君のことが本当に好きで だから一緒にいるのがつらくなった……ていうのでどう?」
かなえからの逃亡は、これまでの逃亡とは端的に違う。なぜならかなえとの生活では、嘘が露見して破綻したりしていなかったからだ。
彼はかなえから逃げたのではない。自分の中に芽生えてしまった原罪から逃げたのだ。
嘘をつきすぎて、本当なのか嘘なのか自分でも分からなくなってきたという悟。
かなえを好きだという気持ちは本当だったんだろう……というのは簡単だ、というか理屈で考えるとそうなる。
だけど、本当か嘘かが大事という価値観は、悟の中で既に失われている。衝動と行動だけが、悟という人間を形成するのだろう。
その呪われた身とともに。
…物語は、誰も祝福されないままに幕を閉じる。
思えば、何もかもが遅かったのだ、かなえも堀も悟も。時間が経ちすぎた。3人の傷口は、とっくに化膿して、表面上には見えない。
悟が嘘と本当の見分けがつかなくなったように、傷はとっくに彼女らの血肉となり、発散させる前に彼女ら自身と化してしまった。
3人のそれぞれの出会いが、いまさら傷を刺激し、そして中途半端に膿ませた、アンダーカレントはそんな物語だった。
かなえたちの傷口が本当に痛むのは、きっとこれからだろう。