『この世界の片隅に』についての所感・再会する命たち
「あいつは人さらい わしらはさらわれた人達じゃ」
「その通り ほいでキミ達はわが家の晩ごはんとなるのだ」
冒頭に現れる、後にすずと周作を導くこととなる、人さらいの化物。
違和感があった。徹底的に等身大で、リアリスティックに描かれたこの映画に、現実には存在しない化物が現れたことが。
化物について考えるために、座敷わらしについて考えたいと思う。
すずの幼い頃、屋根裏から現れ、スイカを食べて去っていった座敷わらし。
すずは成長した後、座敷わらしと再会する。その正体は、遊郭の前で道を案内してくれた、白木リンだ。
さて、原作未読者は多分分かんないと思うんですが、周作、おそらくリンさんを買ってたんですね。もしかしたら、恋仲だったかもしれない。そう匂わせる描写が、原作にはあります。
これですずさんが水原さんといた時の「うちはあの人にハラが立って仕方がない…」というもう1つの意味が伝わったでしょうか。単にあてがわれたから、だけじゃないわけですね。
原作との違いが云々が気になる方は、素晴らしい記事が書かれていますのでそちらを参考にしていただけたら。
僕が言いたいことは、すずは幼い頃、リンにスイカと着物を与えた。その後、リンは遊郭の女となり、周作とそういう関係になった、ということだ。
すずが、リンと周作を繋げた。
映画ではあまり目立たないが、すずとリンの関係性は非常に面白い。
また、物語冒頭ですずが化物に話しかけるきっかけは「ふたば」という料理屋を探していたからであるが、リンの勤める遊郭の名も「二葉館」である。
話が散らかりそうなので先に言っておくと、この世界の片隅にという物語は、決定的に“再会”する物語なのだ。
周作との“再会”。
リンとの“再会”。
“再会”というテーマは、最後の最後まで適用される。
物語のラストシーン、原爆で母親を失った名も無き少女。
少女は、右手のないすずを見て、彼女を母親として“再会”を果たす。
そして径子は、その少女を晴美として“再会”を果たす。
すずも少女も、代用品かもしれない。けどそれって、そんな悪いことだろうか。
こうの史代は、原作のあとがきでこう書き記した。
「私は死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるのかどうかわかりません」
このニュアンスが、伝わるだろうか。人は、死んでも“再会”できるのだ。死は、終わりではない。
さてようやく化物の話ができる。
もちろん化物の正体は、死んだ兄である。
すずは、死んだ兄と、幼い頃に既に“再会”していたのだ。
鬼いーちゃんは、死んでもなお、時間も空間も越えて、ワニの奥さんと暮らしていたのだ。
すずが周作とリンを出会わせたように、兄がすずと周作を導いていた。
荒唐無稽に聞こえるかもしれない。だけど、これこそが、この物語の正しい時系列だと、僕は思うのだ。
妹のすみは、被爆の影響で死ぬかもしれない。というか、登場人物全員。
だけどね、死は終わりではないんだよ、というのが、一番素直な感想でございます。
最後に、リンが言った、一番好きな台詞を載せておきます。
「誰でも何かが足りんぐらいで この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ すずさん」