『HUNTERXHUNTER』についての所感4・未だに名前のないもの

はい、またまたKAI-YOU様のところで書かせていただきました。もうほんと頭が上がらないっす…。

 

 

kai-you.net

 

以下おまけ。(というわりにがっつり書いてしまったけど)

 

 

 

KAI-YOUさんの記事ではこれ以上ややこしくするのもどうだろうと思って書かなかったんですけど、ユダポジション=悪魔=蛇=ルシファー役って、ハンターハンター世界では本当に複雑なんですよね。

 

例えば、国家群にとって流星街は治外法権だし、流星街にとって旅団というのは天国にとってのルシファー達みたいな存在だし、旅団にとってのヒソカは正にユダだったわけですよ。

 

で、NGLも他国家が介入しづらい国策を設けてたり、カキンもガチガチに固められてた暗黒大陸への不可侵条約をすり抜けてたり、要するにほぼ完璧に機能する構造を冨樫先生の中で想像した上で、いかに穴を見つけるかっていうゲームが、僕ら読者が読む前に冨樫先生の中でシミュレートされてるわけですね。例外の存在が、物語のスタート地点なわけです。

 

では物語とは何なのか。

 

物語とは人間のためのものです。

 

これよく例に出すんですけど、科学が発達する以前の人々は雷が降ってくるのを体験して、神なり、我々が悪い行いをしたから神様が怒ってるんだ〜、ていって、原因と結果をこじつけて安心してたわけですね。現代では迷信と呼ばれます。

 

または、楽園から追放されたから労働が課せられた〜、人は原罪を背負っている〜、とかいって、パンピーの苦しみを正当化するとともに、生まれながらにしてお金持ちな人が将来的にも安定する、一石二鳥のアイデアです。王族、啓蒙主義的宗教、今風にいうと資本主義なんかもそうですね。長くなるので詳しく説明しませんが、「時間は過去から未来に流れる」という価値観なんかもそうです。気になった人はアビダルマ哲学や分析哲学なんかでググってね。

 

それらは一言でいえば、非言語の言語化。社会等のある集団の生存戦略として、わからないことを説明する機能が必要だったんです。それが物語の必要性。

特に感情なんてあやふやなもの、言語化しとかないと人間不安なんです。分からないということは、単純に怖い。なので、物語はそのまんま社会倫理と読み替えても良い。岡田斗司夫さんが「ワンピースが倫理の教科書でいい」って言ってらっしゃる理由はこのへんですね。

 

さらに、それは必ず面白くなければならない。理由は明確で、面白くないと、特に文字等で残す文化が発達してない口伝の時代では、後世に伝わらないから。

神話学や民俗学は、その後世に伝わった残骸を学ぶ学問と言えます。

そういった物語では、文脈よりもモチーフが重要になります。古事記だとか日本の昔話

なんかでも、論理めちゃくちゃでしょ? そこで重要視されてるのは「決して振り返ってはいけない」とか「3回同じことをして、3回成功するかどうか」とか「異なる世界のメシを食う」とかいう「モチーフそのもの」なわけです。

例えば宮﨑駿さんなんかは文脈主義から完全に決別した作家ですね。ポニョとか、あるいは庵野さんのエヴァQとかを見て「物語が破綻してる」なんて批判してる方々は、そもそも読み解き方を間違ってるんですよ。まぁ宮﨑駿さんはそもそも童話研究会かなんか出身ですしね。

落合陽一さんなんかは、文脈(物語)でなく、こういった「ことやもの、そのもの」に重点を置く見方を「原理主義」と呼んでいます。(僕の読み解いた限りはですが…)

 

 

さて話を本題に戻して、ではハンターハンターとはどういう物語なのか。

 

それは、おまけの冒頭で書いた通り、論理でガチガチに固めた世界の、ほんのわずかな可能性から発生する、様々なキャラクターがそのキャラクターに見合った論理的思考で戦い、論理と論理のぶつかり合う、文脈主義の究極でした。

 

何度も書いてる通り、蟻編までは。

 

メルエムはネテロを賞賛し、あっさりと受け入れました。

または、アルカ・ナニカを守ると決めたキルア。

論理的にありえないものをそのまま受け入れる、あれが原理主義です。

 

 

冨樫義博先生はいったい何を描こうとしているのか。

 

今まで描いてきたものを思い出してみます。

 

 

 

コムギを治療するピトーに「ズルい」と言い放ったこと。

 

論理の限界を極めたメルエムとコムギが「ありがとう」「こちらこそ」と言ったこと。

 

 

 

断言します。

 

これらの感情には、名前がないんですよ。

 

最も近い表現がそれだった、というだけです。名前のない感情は、文脈でしか描けないんです。

一歩違えば、「ありがとう」は「愛してる」だったんです、きっと。

 

上のほうで書いた通り、あやふやなものを言語化するのが物語の役割であって、ハンターハンターで描いているのは、おそらく人類史上表現されたことのない感情を表現すること、となります。

 

ジンの言葉を借りるなら、冨樫先生の求めてるものは「目の前にない何か」になりますね。

 

 

せっかく軽く原理主義の説明もしたので、もう一歩だけ踏み込みましょう。

 

メルエム(キリスト教、中央集権的存在)とネテロたちハンター(東洋的多様性や多様性からなる突然変異)やコムギ(釈迦、煩悩(願望)を持たない者)が、全力でぶつかったのが蟻編です。

で、カキン編はっていうと、当たり前ですけど登場人物は文脈主義者、論理で読み解くプレイヤーですよね。

対して、暗黒大陸には不条理で法則性すら読み解けなさそうな原理主義者の巣窟なわけです。

 

 

これは以前の僕の記事を読んでいただいてる前提になりますが、結論から言うと、冨樫先生の描こうとしてることって、文脈主義と原理主義アウフヘーベンすることですよね、どう考えても。

簡単にいうと、理不尽との折り合いのつけかた。格好をつけるなら、人類の神話への挑戦と呼んでもいい。

その片鱗として、アルカ編は存在したとも言える。

 

KAI-YOUさんの記事で、ハンターハンター世界における神様の存在を否定できなかった理由は、このあたりにもあります。

 

やっぱりね、ハンターの主人公というか象徴は、ゴンとジンなんだなぁ。ジンテーゼを導く達人のゴンと、それを分かった上で戦況を読み切る達人のジン。

「狙った獲物が狙い通りに動くこと」がハンターの冥利だし、「目の前にないもの」を求めるのが冨樫先生なわけですよ。

 

 

疲れてきたし文章も雑になってきたので終わっときます。おまけのはずだったのに、KAI-YOUさんに寄稿した記事より時間かかってしまった(笑)