雑感2・くすんだスプーンをまず認めるということ

岡田斗司夫は「自分が楽しむことに資格が必要だと思っていないこと」をリア充の定義としました。

 

前提として、言ってる意味が分からない人は全員リア充でしょう。

あえて説明すると、例えば職場で飲み会があったとき、学校でクラスの団欒を見たとき、SNS上で盛り上がってるのを見たとき、平気で入っていける人間がリア充です。

 

「自分がここにいること」に疑問を持たない人種。

 

逆に「自分がここにいること」について不安を抱く人種、それが非リアです。

 

例えば“斜陽”の中で自らを「快楽のインポテンツ」と称した太宰治なんかは、よっぽどの非リアです。何をしても楽しいと思えない土台には、そもそも自分がこんなことをしていていいのだろうかという不安がありました。

 

何故分かるのかというと、僕自身が完全にそういう人種だからです。

 

 

 

岡田斗司夫さんの言葉を自分なりに言い換えます。

 

 

リア充とは「自分に価値があると思っている人種」です。

 

 

皮肉っぽい言い方になってしまいましたが、そういうわけではありません。むしろ、尊敬しています。

 

これは問われて答えるというより、無意識のレベルの話です。

 

 

例えば僕は自分の悪口を言われたとき、怒ることができません。怒らないのではなく、怒れないです。なぜなら自分という人間に価値がないのは自分が一番よく分かっているので、悪口をその通りだなあぁと受け入れてしまいます。

実際に「お前なんか生きてても死んでもどっちでもええねん」と言われたとき、妙に納得したのを覚えています。むしろあなたは僕がそんなこと気にしてると思っているのか、とさえ思ったことも。

 

 

何が言いたいのかというと、つまりリア充の方は自分に価値があると無意識にでも分かっているから、楽しいことに参加することにためらいがない。

 

僕含め非リアは、徹底的に自分に価値がないことを分かっているから、楽しい空間に参加することをためらう。自分なんかがそこにいって周りに迷惑をかけないだろうか、意味あるんだろうか、というオプションつきで。

 

さっきの例に絡めると、自分に価値があると無意識に分かってるから、喧嘩できるというわけです。自分のことで喧嘩できる人っていうのは、非リアから見るとそれだけでリア充なんですよ。(誰かのために喧嘩できるかってのは別の話になりますが)

 

 

当然ながら、僕らはリア充が羨ましいです。だけど絶対に真似できない。リアルが充実するかどうかというのはメンタリティの問題だからです。

 

 

人間というのは簡単に変わらないし、残念ながらそれはほぼ運命的に決まってしまいます。

例えば、こんな事件がありました。

 

【悲報】ソウル大生、この世の真理に気付き自殺 : 暇人\(^o^)/速報 - ライブドアブログ

 

 人間は生まれる場所を選べません。しかも人間は環境、アフォーダンスに依存する生き物であり、さらに子供の頃に学んでしまった行動原理をなかなか変えることができない。

歪みの原因は貧乏かもしれないし、親かもしれないし、いじめかもしれません。

 

かつて日本の哲学者の和辻哲郎は「運命を愛せよ。与えられたものを呪うな」と言いましたが、それはリア充の言葉であって、とんだマッチョイズムです。

 

僕は運命という言葉を、ネガティブな意味である程度信じてしまっています。(もちろん変えられるというのも重々承知ですが)

 

スヌーピー的に言うなら「配られたカードで勝負するしかないんだよ」ってやつですね。

 

和辻さんは今風に言うとメディアの言論人なので日本のためにもポジティブなことを言わなければならなかったのでしょう。彼の言葉自体がド正論なのは承知しています。

 

けれども悲しきかな、憧れと妬みが、表裏一体なのも事実だと思います。

 

 

僕が人間の最も醜いと考える感情が、妬みというものです。

 

周りはみんな楽しそうなのに、まるで世界中で自分だけが不幸なんじゃないか、という錯覚。

自分の問題なのに、関係のない他人を呪いたくなる感情。

当然自分の中にもあります。

 

…が、それは案外乗り越えられます。理由はさっきから言ってる通り、自分には価値がないと分かっているからですね。

 これは余談ですが、浮気されたりしたことを「裏切られた」と表現することもよく分かってません。そもそも他人を束縛する、されるという行為がとても自信に溢れてるなぁと感じるので、恋愛をするのもリア充の権利なんでしょうね。

 

 

建設的な話をしましょう。

くすんだスプーンのもとに生まれ、生きていく方法です。

先ほどからリア充か非リアか、という黒か白かの二元論で語っていますが、現実問題としてはだいたいの人がグレー色のハイブリッドでしょう。簡単に言うと、気分に左右される。

 

白に近い人については、和辻先生のポジティブマッチョイズムにお任せするとして、比較的黒い人種について考えてみます。

 

ポジティブになれない、自分に価値がないと考える非リアの生き方です。

 

 

 

結論から言うと、ネガティブでいいと思います。

 

 

考え方としては、坂口安吾堕落論なんかに近いかもしれません。超ザックリ言うと、人間なんてダメで元々なんだから、そこから頑張ろうよ、というやつです(ザックリ過ぎ?)。

 

繰り返しになりますが、僕は個人が抱えるネガティブな思考がそこまで悪いことだと思っていません。

 

少なくとも自分は、憎しみや嫉妬や悔しさ、そういう自分と向き合うことでしか生きてこれなかった人間です。

 

よく物語で「憎しみの連鎖は何も生まない」みたいなこと言いますが、あれウソですよね。

例えば戦争における報復という行為は、抑止力として機能し、そこからお互いの妥協点を見つけるのが正しい戦争の終わらせ方です。現状は代理戦争&代理戦争の実質世界大戦みたいなものなのでそれが異常に複雑なのでしょうね。…今はそんな話じゃないので割愛しますが。

 

 

また話が逸れましたが、僕はネガティブな力の可能性を信じているという話です。

 

価値がないと分かってるから、頑張れる。

 

0からスタートだから、プラスにしかならないという考え方。一番下だから、上がるしかない。

 

こうやって書くとまるでポジティブみたいですが、僕が言いたいのは、そういうネガティブな自分をポジティブに変えようと思わずに、まずそいつを認めようということです。

 

その源泉が、憎しみや妬みであってもいいと思うのです。

 

 

駄文おしまい。