『ラ・ラ・ランド』についての所感・夢の始まりと終わり
(攻殻機動隊2巻より)
「自分が最も欲しいものは何かわかっていない奴は、欲しいものを手にいれることが絶対にできない」
これは村上龍著「コインロッカーベイビーズ」からの引用である。
最も欲しいものを手に入れること、やりたいことを実現すること。自覚的な願望。その究極系を人は夢と呼ぶ。
セバスチャンとミアは夢を持っている。自分の店を持つこと。女優になること。
一方で、夢という単語にはもう一つの側面がある。眠りの中で見る、論理の破綻した世界。そこでは空も飛べるし、魔法だって使える。そしてそれは、無意識の願望である(もちろん無意識の恐怖やストレスも現れてしまうが)。
ラ・ラ・ランドの世界では、それはミュージカルという形で現れる。
そう、ミュージカルとは夢なのだ。
この物語は、狭間の物語である。夢と現実の狭間…ではない。夢と夢の狭間、2つの願望に挟まれた物語なのだ。
物語は唐突なミュージカルで幕を開ける。
道路で、車上で、踊る大勢の者たち。
これは大渋滞で車が進まない鬱憤を晴らしたい、大衆の願望の現れだろう。
物語は、夢で始まる。
同時に、ミュージカルの始まりは無意識の願望の現れですよ、という宣告ともとれる。
(あんま関係ないけど、キャラバンの到着を連想してまう)
最初、セバスチャンとミアがお互いをタイプじゃないだの物語だったら恋に落ちるシーンなのにだの白馬に乗った騎士様?だのミュージカル調で罵り合っていたので、ミュージカル=夢じゃないのかな? と思っていたのだが、発想を変えてみた。
逆である。夢だから、いきなり相手に本音をぶつけることができたのだ。だって、普通いきなりほぼ初対面の相手にタイプじゃない、なんて言えないでしょ? 物語なら恋に落ちるのに、というのは、恋に落ちたい、という本音そのものだ。
夢なのだから、プラネタリウムのシーンで宙に浮き、宇宙の彼方まで飛んでいくシーンなんて、もはや当然である。
そして一番最後のミュージカルは…の前に、前者の夢にも触れておこう。
セバスチャンは自分の店を持つために、ミアは女優になるために、映画の大半のシーンを割いて紆余曲折あるわけだが、ここで大切なことは、彼らはお互いがお互いを導いた結果、夢を叶えることができたということだ。
ミアと喧嘩しなければ、セバスチャンはそのままツアーを回っていただろう。
セバスチャンが車で迎えに来なければ、ミアは女優になっていなかっただろう。
その後、2人はなんと、永遠の愛まで誓う。
…誓ったが、とりあえず様子を見ようとセバスチャンは提案する。お互いの夢を叶えるために没頭したら、お互いどうなるか分からないと。
その結果、2人とも夢を叶えることができたが、2人は離ればなれになる…という構図になっている。
5年後。
2人は夢の真っ只中だ。ミアは結婚出産し女優業の傍ら幸せな家庭を築き、セバスチャンは自分の店で連日ジャズライブに明け暮れている。
そんな中、幸か不幸か、運命は2人を“今さら”再会させてしまうのだ。
かつて愛を誓った相手。お互いが、夢の恩人。
最後のミュージカルが始まる。
それは出会い頭の口づけから始まる、可能性世界の夢。
ほんの少し違ったらありえたであろう、if世界の順風満帆なラブストーリー。
2人が夢を諦めていたら、夢より愛を優先させていたら…という世界線。
「ラ・ラ・ランド」 には、現実離れした世界、お伽話の国…という意味合いがある。
この、最後のミュージカル“だけ”が、ラ・ラ・ランドなのだ。
セバスチャンのピアノがあぶり出した、無意識の片隅にあった、2人のたらればの世界だけが。
後悔ではないが、幸せになっても忘れることのできなかったわだかまり、妄想。これがラ・ラ・ランドなのだ。
2人は目線で感謝を示す。お互い、夢を叶えることができたね、と。
彼らは何も失ってない。むしろ、満たされている。それなのに、喪失感は確実にある。名前のない感情が彼らの心に浮上する。
夢の終わり。
ミアは、かつてそうしたように、今あるものを放り出してセバスチャンのところに走り出さなかった。今あるものは、セバスチャンのおかげで手に入れたものなのだ。
けれど、それでいいと思う。
白馬に乗った騎士様がお姫様にキスするのも、愛が永遠に続くのも、お伽話の中だけなのだから。